役に立たないことはない
語学の勉強で、結局はそれで話せたり文章が読めないと使えない。なんて話がよくありますが、別にそんなことはないと私は思っています。
例えそのレベルに達していなくても、話のネタになることもあれば、単語を少し知っているだけで、標識や看板、CMなどの色んな場面で「ああ、これはこういうことを示しているのかもしれない」と推測することが可能でしょう。
確かに、標識や看板をほとんど読めること、話したり文章を読むことは大きな力ですが、だからといってそれができないレベルのものを「使えない」と切り捨てることは、例え「切り捨ててはいない。話のネタぐらいにはなるかもしれないが、価値は(とても)低い」と弁明したとしても、認識に大きな差があると考えます。
特に、使うことができる道具と認識できるか。
認識できなければ可能性は0ですが、どこかで使うことができるかもしれない。どこで使えるだろうか。この場面で使ってみようか。なんて考えて行くと、実はなんだかんだいっぱい使うことができる場面というのは存在するのです。
そうなると、結局活かせるかどうかは自分自身となるわけですね。
それをもっと抽象化させていくと、新しい事象や物事に出会った時にも、同じことが言えます。
例えば、新しいゲームを始めようとした時、どうやってシステムを理解するか。赤ちゃんのように素のまま理解できるのであれば良いのですが、中には難解なゲームというのも存在します。
それを理解する時、自己の持っている知識経験を動員できるか。というのが、早く理解する為の一つの鍵になってきます。
逆に言えば、どれだけ学んだり経験していようが、活かせなければその機会を失うわけですね。もちろん人間ですから理論上あるすべての機会を活かすことはできないでしょうが、いくつかは拾えるようになります。そしてそのいくつかによって、見えているものの世界が全然違うようになるわけですね。
前回の記事の後半部分を少し丁寧に書いたような文章になりました。
それはガラクタか
とある前、403という数字を覚える機会があり、どう覚えようかと素因数分解したら13×31となり、「面白い数字だ!」と一人で楽しんだことがある。
また別の日、ツイッターにおけるAA(アスキーアート)つきの定型ネタを見た時、そこに書かれていた一文の「終わらない一週間」における「一週間」は終わるのか。について真面目に考えていたことがある。
このような経験や考えについて、多くの人はガラクタ、意味のないものと考えるだろう。これが何かの役に立つのだろうか。と。中には、もっと金になる考え方や情報を模索するかもしれない。
しかし、この態度はとても「受動的」である。素材があったとして、その素材を加工することなく、そして、加工することをあまり考えず、何に役に立つか判断しているのである。
もしかしたらその素材を加工すれば中から金が出てくるかもしれないし、何かと組み合わされば化学反応が起きるかもしれない。そしてまた、それが社会的経済的価値を有するものかは、本人によって関係がなかったりする。個人的には少しもったいない。
では、加工することを考えよう。
となると、私たちはその素材をどれぐらい把握できているか認識する必要がある。そして、把握しようとする主体的態度、また、加工する体力が必要であろう。それは実践において身についていく(慣れ)。
そのようなものが結局、何に役に立つのかと問われれば、日常の考え方はもちろんのこと、行動に現れる。
ゲームでも、何かショッピングをしている時でもいい。見えている加工範囲が違っている。そして、持っている情報においてそれを加工し、論理的に新しい情報を生み出したり、推論によって多少不確実でもそれを選び、ゲームを有利に進めたり、ショッピングなら金額を安く済ませられたりするだろう。中には、関係がなさそうな学問といった知識から周りには到達できない情報に繋げられることもあるだろう。とても強い力なのである。
しかし、このような力の尺度を私たちは見つけられていないし、相対的判断も難しい。だがそれはあるのであり、力量の大小は数多の出会う選択肢に大きな影響を及ぼすのである。
初めて書いて見るよ
Akaba Eriと申します。
家でのんびり過ごしながら、自己についてどう生きるべきか考えて色んな道を毎日模索しています。
家では特に様々な専門書を読むことが多く、それでいながら人とは別の視点で物事に向かい合うことが多い為、気づいた点等をこのようにブログとして残していければなと思いブログを開設いたしました。
文章で構成されたアイデアの表現について、現代において価値判断ができない者が多いように感じます。
それは、自己の文章やその内容が稚拙であることを覆い隠す指摘ではなく、例えば人の「ブランド」によって有料記事を買う、といったことです。
その中の言及すべきこととして、「内容を理解せずに満足に浸る」といったものでしょう。
確かに、そのような目的においてそのような文章を買うというのはありです。ここに私が立ち入るべきではないでしょう。
しかし一方で、ブログの記事特有の文章誘導(デザイン)によって、分かりやすく読みやすいこそあれ、内容が表面的であったりして、自分で深堀りをしないとその内容が真価を発揮しなかったり、内容が虚言であると判断できないといったものがたくさんあります。
私はそのような文章を書く気はございません。
ブログデザインに合わない文章の量になるでしょうが、それでも私は伝えることを重視して、書いていく所存でございます。
私の面倒臭さを発揮する場所となりますでしょう。