Akaeriのブログ

Akaba Eriと申します。日常にある様々なことについて考えていく人。

役に立たないことはない

 語学の勉強で、結局はそれで話せたり文章が読めないと使えない。なんて話がよくありますが、別にそんなことはないと私は思っています。

 例えそのレベルに達していなくても、話のネタになることもあれば、単語を少し知っているだけで、標識や看板、CMなどの色んな場面で「ああ、これはこういうことを示しているのかもしれない」と推測することが可能でしょう。

 確かに、標識や看板をほとんど読めること、話したり文章を読むことは大きな力ですが、だからといってそれができないレベルのものを「使えない」と切り捨てることは、例え「切り捨ててはいない。話のネタぐらいにはなるかもしれないが、価値は(とても)低い」と弁明したとしても、認識に大きな差があると考えます。

 特に、使うことができる道具と認識できるか。

 認識できなければ可能性は0ですが、どこかで使うことができるかもしれない。どこで使えるだろうか。この場面で使ってみようか。なんて考えて行くと、実はなんだかんだいっぱい使うことができる場面というのは存在するのです。

 そうなると、結局活かせるかどうかは自分自身となるわけですね。

 

 それをもっと抽象化させていくと、新しい事象や物事に出会った時にも、同じことが言えます。

 例えば、新しいゲームを始めようとした時、どうやってシステムを理解するか。赤ちゃんのように素のまま理解できるのであれば良いのですが、中には難解なゲームというのも存在します。

 それを理解する時、自己の持っている知識経験を動員できるか。というのが、早く理解する為の一つの鍵になってきます。

 逆に言えば、どれだけ学んだり経験していようが、活かせなければその機会を失うわけですね。もちろん人間ですから理論上あるすべての機会を活かすことはできないでしょうが、いくつかは拾えるようになります。そしてそのいくつかによって、見えているものの世界が全然違うようになるわけですね。

 

 前回の記事の後半部分を少し丁寧に書いたような文章になりました。